FA日記


7月19日

本格的に「ケヤキ救出大作戦」が開始された。
第一に水はけをよくすること。
水はけのよい高床の植物はすこぶる元気だ。
それに対し、ケヤキは比較的排水の悪い低床にある。

誰に頼まれたわけじゃない。
かなでさんのことが好きで、かなでさんにかなしい思いをさせたくない。

それだけの単純な理由で、俺はここにいるのだ。
用務員のおじさんに液肥を貰ってきた。消毒もしれくれるらしい。
他に書くことがない。


7月23日

午前中に生徒会の仕事を終わらせ、午後はひたすら土掘りの作業。
この生活パターンが日課になってきた。

まだ作業を開始して幾日も経っていない。
こんな短期間で結果など出るわけもないが、それでも期待せずにはいられなかった。

たった一つでも、新芽が出てくれれば。
イベントがない。


7月24日

今日は司がやってきた。
休みの日だというのに、無心でケヤキの世話を手伝ってくれる司。
不覚にも感動した。
3行で終わる内容だった。


7月28日

その日は朝から豪雨だった。
目覚めてから身支度もそこそこに、部屋を飛び出した。
俺たちがつくった溝は、雨水でがっつりと溢れかえっている。
大丈夫かどうかは、俺にもわからない。
だが、今は祈るしかなかった。
俺たちのやったことが、どうか無駄にならないように。

すぐに結果の出ない作業だけに、じれったくなるのは致し方ない。
はたして、俺たちのやってることに意味なんてあるのだろうか。

かなでさんの前では、せめて笑顔でいなきゃ。
一番ケヤキのことを心配しているのは、この人なんだ。


8月4日

今日も、ひたすら溝を掘り続ける。
やれることはやってきた二週間だった。
溝を掘り、肥料をまき、土を変えた。消毒もしてもらった。
だけど……。やはりそう簡単には成果は現れない。
枝は枯れ、根元は腐朽し、樹皮も剥がれつつある。

ケヤキには元気になってもらいたい。
切られるなんてことだけは避けたい。
でも、もし倒れてしまったら?寮生の誰かに被害が及んだら?
そうなったら、かなでさんは……。

かなでさんの横顔に、ほんの少しだけ疲労の色が見えた。
日中は寮の仕事やケヤキの世話をして、夜はいつも遅くまで勉強してる。
いったい、いつ寝てるんだろうと思うほどだ。

その反面、イベントの類は一切発生する気配を見せない。
みんなで海に行ったあの日。
俺は、かなでさんを好きなところに連れていくと約束した。
夏休みはまだまだある。無理なら、二学期が始まってからでもいい。

シャベルが大きな石にぶちあたった。
どーすんだこれ。炎天下と相まって、意識が遠くなっていく。

なぜ俺は、こんなムキになっているんだろう。
自分のやっていることが無駄だと思いたくないから?
本当は、心のどこかで諦めているから?
かなでさんによく思われたいから?
やはり、無の境地になってただひたすら穴掘りをするだけの苦行である。
無限の空間の中にあるかどうかもわからない針の穴に糸を通すが如き
精神的重圧がのしかかる。総ての努力が一瞬にして崩れ去るかもしれない。
差し詰め、セルフ賽の河原といったところか。

かなでさんが、俺の腕をつかむ。
とがめるような目で俺を見上げる。

やがて、その視線が。ふと、俺の頭上に移った。
……羽根?
大きな鳥の羽根だった。

かなでさんはその羽根を受けとめ、さらに上へと視線を移した。
「こーへー、見て」
それはよく目をこらさなければわからない、ささやかなものだったけど。
確かに、枝から目が生えていた。わずかに緑の葉が開いている。

この子、ちゃんとまだ生きてるんだよ
まだ、生きようとしてるんだよ……っ


8月5日

俺はさっそく会長に、昨日の一件を報告した。
会長はあくまで無表情だった。
樹木医の先生にこの話をそのまま伝えてもらうことになった。
何はともあれ、これでまた可能性が広がった。

俺たちがケヤキの世話をしているという話は、少しずつ寮に広まっていた。
中には、手伝いを申し出てくれる人もいる。
あのケヤキを大切に思っているのは、俺とかなでさんだけじゃないのだ。
それが実感できただけでも、大きな収穫だった。
あとは専門の先生に、改めて診てもらうことにしよう。

夕方、かなでさんの部屋でケヤキについて相談することになった。
机の上には、専門書が所狭しと広げられている。

「今お茶淹れるから、待っててね」
こうやって二人でゆっくりできるのは、かなり久しぶりのことだった。
さりげなく、他のお茶会メンバーがハブられていることについては
特に言及しない。
ケヤキが芽吹いたこともあって、気分も明るい。

「紅茶とチャホウキタケモドキ茶、どっちがいい?」
……はい?

前者はいいが、後者がまったくわからない。
というか、飲みたくない。

じゃあ、紅茶で。
「チャホウキタケモドキ茶ね。わかった」

一応、紅茶の香りが漂ってホッとする。
チャホウキタケモドキの参考画像 を貼っておこう。食用ではあるらしい。これのお茶なぞ飲みたくないが。


8月7日

その日、俺とかなでさんは談話室にいた。
ケヤキの世話が一段落し、お茶を飲もうとしたところで勢いよくドアが開く。

ケヤキ伐採の噂は、日に日に広まっている。
枯れ木がようやく芽吹いたことを話すと、みんな一様に喜んでくれた。
これで、もっと新芽が増えてくれれば。時間がほしい。
せめて、かなでさんが寮長を退任するまでは。

夕方。
中庭には、珍しい先客がいた。東儀先輩だ。
新しい芽が出た。しかししれ以上の成長は見られなかった。
……俺がずっときにかかっているのはそれだ。

「……これだけか」
駄目押しするようにつぶやく。

時間をかければ、もっと元気になります
自分に言い聞かせるように言った。


8月9日

夏休み中盤戦ともなると、生徒会の仕事は多忙を極めてくる。
文化祭は9月13日と14日。あと一ヶ月くらいしか時間がない。
木に構ってる場合じゃねえ!

「伊織先輩、武田先生からお電話です」
……武田先生?樹木医の武田先生のことだろうか。

やっぱり切ることになったよ。あのケヤキ
……え?

俺はしばらく言葉を発することができなかった。
そんな簡単に、結論を出していいことなのか?
だって、ちゃんと芽吹いたじゃないか。
水はけをよくして、肥料をやって、消毒して。

元気になりますようにって、みんなで祈ってきたじゃないか。

なのに――

「君たちがあのケヤキを大切にしてる気持ちはわかる」
「でも俺は、あのケヤキ以上に寮生たちの安全を守りたい」

何を最優先すべきか。寮生たちにとって一番大切なことは何か。
それは、俺たちの維持じゃない。ロマンチックな言い伝えでも、伝統でもない。
寮生のみんなが、安全な生活を送れること。それが大前提だ。

ただ、うなずくことしかできなかった。
結局はどうすることもできなかった。
すべてが無になってしまった。

かなでさんには、なんて説明したらいいんだろう。
残酷な役割だと思う。
でも、俺自身が伝えなくてはならないのだ。
かなでさんの、恋人として。いや、生徒会役員として、だ。

かなでさんの顔をまともに見ることができない。
笑顔を浮かべているであろうその顔が、悲しみに染まるのを見たくなかった。

かなでさんは両手を俺の頬に添えた。
大きな目が、俺をまっすぐに見ている。
そらすことも適わないほど、視線で射抜いてくる。

もうこれ以上、黙っていることはできない。
俺は、俺なりの責任を果たさなくてはならないのだ。生徒会役員として。

「―――」

かなでさんの手が、ゆっくりと俺の頬から離れる。
目はそらさない。
ただ、さっきまで見せてくれた人なつっこい笑顔は、そこにはなかった。

でも――
何かがあってからじゃ、遅いんです。

まるで他人事のような口振りだと思った。
昨日までは、あんなに二人で頑張ってきたのに。
かなでさんを裏切ってるような気分になる。
明らかな拒絶の意。


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